ローマ人への手紙 11章



1-10節

自分にゆだねられた異邦人への福音に一生懸命なパウロですが、自分の同胞のユダヤ人が救われていかないことに無関心ではいられません。前の章でイスラエルが「不従順で反抗する民」であることをパウロは認めていました。だからこそ「神はご自分の民を退けられたのでしょうか。」と1節で問いかけずにはいられませんでした。そこから、神がご自分の民を退けていないことをていねいに確認していきます。

 

その証拠の一つは,パウロ自身でした。彼はイスラエル人で,アブラハムの子孫,ベニヤミン族の出身。生まれも育ちもイスラエル人でしたが、パウロはイエスを主としメシヤと信じ、救われています。ユダヤ人だからといって退けられてはいないのです。

 

救われているのはイスラエル人の中でパウロ一人かいうと、それも違います。もっとたくさんいました。ペンテコステの時にエルサレムで何千人も救われました。迫害の中でもイスラエル各地で救われていました。

 

それは、パウロの時代だけのことではありませんでした。迫害が最も厳しかった時代、エリヤの時代についてパウロは振り返ります。第1列王記19章です。バアルを信仰していた女王イザベルによってイスラエルの神の預言者たちが次々と殺され、エリヤも命を狙われて逃げまわっていました。彼が自分一人になってしまったと神に訴えたとき、神はエリヤ以外にバアルを拝まない者を7000人残していることを教えて、エリヤを励ましました。

 

重要なのは、それが神ご自身のためだということです。神は自分を愛する者、自分を神と認めて礼拝する者を求めておられるのです。だから神は、神を求める者を退けられることはないとパウロは主張するのです。

 

ただし、恵みに加えられるのは、善い行いをしたからではなく、ただ神の恵みを信じて受け入れることによるのです。ユダヤ人は律法を守ることで救われようとし、神の恵みを認めようとしません。8~10節にそのユダヤ人の姿が書かれています。パウロはダビデの詩、詩篇69篇の中同じ姿を見ています。

 

少し戻って、7節に、「イスラエルは追い求めていたものを手に入れず、選ばれた者たちが手に入れました。ほかの者たちは頑なにされた」とあります。

 

人の心に働いてキリストを受け入れたり、拒んだりするように神が働いているように読み取れますが、神は人の心をもてあそばれることはしません。神は万事を働かせて、人がキリストを主として受け入れることを待っておられるのです。ですからキリストを拒否するかたくなな心に無理やり働きかけて、キリストを受け入れさせることは望みません。自分から受け入れるまで待っておられるのです。

 

私たちが、差し出された主の御手を握りしめ、語りかけられる福音に耳を傾けて、イエス様を受け入れた時から、主の一方的な恵みが、暖かな陽射しのように私たちの上に降り注いでいることに気がつくのです。

( 小室 真 )

 

11-15節

聖書には、ねたみの問題が数多く書かれています。アダムの子、カインは弟アベルの捧げものが神に喜ばれたことでアベルをねたんで殺してしまいました。イサクの子、エソウは自分から父の祝福を奪ったヤコブをねたんで殺そうとしました。ヤコブは叔父のところに逃げたのでした。ヨセフは父ヤコブに特別に愛されたため、ねたんだ兄たちによって奴隷としてエジプトに売られてしまいました。

 

新約聖書でも、父の財産を使い果たしてぼろぼろになって帰ってきた弟を、やさしく受け入れて祝う父に不満をぶつける兄の話を喩としてイエス様は話されました。ヨセフの物語を除き、ねたみによる兄弟の争いは解決しないままになっています。ねたみは聖書の物語の底を流れる大きなテーマです。

 

神から祝福を受ける資格もないのに祝福されて喜ぶ異邦人に、ユダヤ人がねたみを抱く姿は、聖書に何度も語られてきたねたみの物語に重なってきます。

 

今までほとんど解決してこなかったねたみの物語ですが、これが解決したらどうなるのか。パウロは12節でこう言います。「彼ら(ユダヤ人)の背きが世界(異邦人)の富となり、彼ら(ユダヤ人)の失敗が異邦人の富となるのなら、彼ら(ユダヤ人)がみな救われることは、どんなにすばらしいものをもたらすことでしょう。」ユダヤ人の背きが世界中の富となるなら、ユダヤ人の救いは世界に更に素晴らしいものを与える。というのです。

 

創世記45章でヨセフと兄弟達が和解した時、兄弟達だけではなく、イスラエルの民やエジプトの民までも喜びに満たされたのでした。

 

異邦人がイエス様を信じることによって救われ、神の栄光を受けることで、イスラエルの民はねたみますが、ねたんだイスラエルの民が救われることになったら、次元を超えた喜びが天地にあふれることを、パウロは感じていました。民族のねたみの根にある優越感と劣等感から世界は解放されるのです。

 

異邦人にイエス様を伝えることは、ユダヤ人が救われることにつながります。そして、ユダヤ人が救われることは、死んでいたのに生きかえり、いなくなっていたのに見つかったこと。神の喜びであり、イエス様の喜び、ふぃぞうぶつ全ても喜び祝うのです。世界がこの大きな喜びに包まれるのだという世界観をパウロは持っていました。

私たちもパウロの世界観をもってイエス様の名前を伝えていくことが大切だと思うのです。

( 小室 真 )

 

16-24節

生活に密着した植物のお話がたくさん出てきます。それぞれどんな意味でしょう。

 

イエス様を拒んだイスラエルの民は捨てられ、イエス様を信じた異邦人は神の栄光を受けるようになる。でもそのイスラエルの民まで神に受け入れられるようになったら、どんなに素晴らしいだろう。死者の中からのいのちだ。とパウロは福音の最終の形を夢見て心を躍らせました。

 

その根拠を16節から語り始めます。2つのたとえです。一つは麦の初穂です。神に供(そな)えるための麦の初穂は粉にかれ、こねられ、かたまりにされます。いろいろな形に変わっても、神に供えられるという聖さに変わりはありません。もう一つはオリーブの木です。アブラハム、イサク、ヤコブが神の民の根である先祖として神との関係を築いてきて聖とされるなら、その枝であるユダヤの民も神の律法の文化と伝統の中で生かされてきて、聖なのです。聖とは神の御用に用いられるという意味です。

 

一方で神の律法も文化も伝統も持たず、野生のままに育った異邦人は、野生のオリーブの枝にたとえられています。異邦人クリスチャンは、聖なるオリーブの木に接ぎ木された枝なのです。聖なるオリーブの木と接ぎ木を接合しているのは、信仰です。

 

信仰に立ち続けていないと私たちは、オリーブの木から切り取られることになります。パウロは「信仰に立ち続ける」ことを、「神のいつくしみの中にとどまる」と言い換えています。信仰に立ちながら、自分が神の民とされていることをユダヤ人に対して誇ることなく、神への恐れをしっかりと持った姿勢です。

 

神の民として本来育てられてきたユダヤ人たちは、エジプトからの救出、バビロン捕囚からの救出を経験し、その苦難の中でいつくしみ深い主を見てきました。彼らは、苦しみや悲しみの時に嘆きの壁の前に立って真剣に祈り続け、起きるとき、寝るとき、食事の時、生活のすべてで神を感じる伝統と習慣の中に生き続けてきているのです。

 

彼らが信仰に立って、思い上がりを捨て、神への恐れを持って生きることは、異邦人よりたやすくできるはずなのだ。パウロはそこにユダヤ人の救いの希望を見ています。

 

信仰に立つときに、自分を誇ることなく、神への恐れを持って生きる努力を惜しんではならないというパウロのことばに、私たちは目を留める必要があるのです。

( 小室 真 )

 

25-32節

パウロは奥義を語ります。

 

奥義というと、一般信徒には教えられないけれど、鍛錬を十分に積んだ弟子だけには教えらえる秘中の秘と捉える理解が多いのですが、ここでは昔は隠されていたものが、聖霊によって今明らかにされた秘密のことを言っています。聖書を読む人にはすべて明らかにされているのですから。

 

その奥義とは何でしょうか。

 

結論は32節です。「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」

 

この手紙が書き送られた当時のローマでは、神に祝福された異邦人クリスチャンと自分こそ神の民だと主張するユダヤ人が、自分を誇り、互いに相手を低く見ていました。

 

それは間違った見方だとパウロは示します。ユダヤ人がキリストを信じないことで神に不従順になり、そのおかげで神に不従順だった異邦人が、キリストを信じることであわれみを受けるようになりました。でも、神の賜物と召命は、取り消されることなく、異邦人がすべて救われてから、ユダヤ人もあわれみを受けるようになる。

異邦人も、ユダヤ人も共に不従順だった者が、共に神のあわれみを受ける者になるというのです。

 

26、27節でパウロはイザヤ59章20-21節を引用しています。「ヤコブから不敬虔を除き去る。これこそ、彼らと結ぶわたしの契約・・。」この節の前、18-19節で、西の方では主の御名が、東の方では主の栄光が恐れられる。と、異邦人の国で神が褒めたたえられことが書かれています。その後でイスラエルがあわれみをうけるというのです。同じようにエレミヤ31章31節にも、イスラエルには新しい契約が与えられることが書かれていましたが、何が新しい契約なのかユダヤ人の間では大きな疑問でした。それはイエス様がよみがえって、聖霊によって明らかにするまで隠されていたのです。

 

ユダヤ人も律法も身近には感じられない日本に住む私たちにとって、この奥義はどんな意味を持っているのでしょうか。

 

「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」すべての人には、イエス様を受け入れている人も、受け入れていない人も含まれます。共に不従順の中にいた、または不従順の中にいるのです。でもその不従順の中から自分にはどうにもできないことを知って、神のあわれみの中へと共に移していただく。その奥義を心に据えると、自分を知恵のある者と考えることは出来なくなるのです。

( 小室 真 )

 

33-36節

パウロは25-32節の奥義を受けて、その素晴らしさに神をほめたたえています。

 

その奥義とは、32節の「神は、すべての人を不従順のうちに閉じ込めましたが、それはすべての人をあわれむためだったのです。」ということばにこめられています。神は、すべての人をあわれもうとされているのです。

 

パウロ自身、神のあわれみに深く感謝していました。Ⅰテモテ1章13-16節です。「私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。」と自分の受けた神のあわれみと恵みについて語っています。

 

パウロはこの素晴らしさを3つに分け、さらに3つの言い方で分かりやすく伝えています。

 

一つは、神の知恵と知識の富の深さです。34節で、「だれが主の心を知っているのですか?」と問いかけて、人の思いは神の知恵と知識に遠く及ばないと言っています。36節で、さらに「すべてのものが神から発し」とあるように、人が求める知恵も知識も富も、もともと神から来ているのです。

 

二つ目は、知り尽くしがたい神のさばきです。さばきとは、罰するというより、人々に自由を許したり、物事を決定したり、責任を取ることを含んだ広い意味があります。34節で「誰が主の助言者になったのですか?」と問いかけ、神の判断は、人の助言や助けを必要としないと言っています。36節で「すべてのものは神によって成る」と、神が深いお考えで、すべてのことを決定され、その責任までとられるというのです。

 

三つめは、極めがたい神の道です。34節で「だれが主に与え、主から報いを受けるのですか?」と投げかけているように、人が神に何かを捧げたり、貢いだりすることで、神が思いを変えて報いるようなことはありません。36節で「すべては神に至る」、神はすべての人をあわれむために道を備えてくれているのです。この道は、神に至る道なのです。かつてパウロがイエスを認めず不従順の道を歩んでいましたが、強い光を受けて目が見えなくなったことから、神に至る道に導かれました。私たちもイエス様の恵みに導かれて神に至る道へ導かれています。今、心をかたくなにして居る人にも、すべての人の人生にも神は共にいて、神に至る道、神のあわれみを受ける道が与えられるのです。

 

では、私たちは何もしないで神様に任せておけば良いのでしょうか。いいえ、求め続けることが必要です。

 

「神から発し、神によって成り、神に至る素晴らしい世界」に向けた働きは、私たちの前に置かれ、求めさせすれば、加えていただくことが出来るのです。パウロはその素晴らしさを、心を込めて手紙につづりました。その手紙は2千年にもわたって世界中の人に読み継がれ、多くの人が神に触れ、神に至る道を見出してきたのです。私たちも与えられた勤めや人々とのかかわりの中で神の素晴らしさを表して今を生きる喜びを得ることが出来るのです。

( 小室 真 )