イザヤ書 55章


1-5節 :< 確かで真実な約束 >

 

 

神は人々に命じます。水を求めて出て来なさい。穀物を買って食べなさい。

買いなさいと言いながら、代価はいらないというのです。水も穀物も葡萄酒も乳も、ただで食べなさい。生活に必要なものを神は無償で与えると言うのですが、続けて、こう命じます。

わたしに聞き従いなさい。良いものを食べなさい。耳を傾けて聞きなさい。そうすれば永遠に生きることが出来るから。

 

神は人の心の問題に切り込んで、神のことばに耳を傾けて従うようにと促します。水も穀物も必要ですが、より重要なもの、良い人生を送るための知恵や知識を得るようにと言うのです。

多くの人が、この知恵や知識を得ようと探し求め、修行し続けましたが簡単に得ることは出来ませんでした。でも、イスラエルの神は自分の所に出て来て、耳を傾けるように、そうすれば、ただで与えると言われるのです。

 

その教えの中心は3節の「ダビデへの確かで真実な約束」です。全ての人の救い主キリストがダビデの子孫として来られるという約束です。真実な約束とは、意味のある、真心のこもった、有益な約束です。4節の「わたしは彼を諸国の民への証人とした」という「彼」、5節の「あなたが、あなたの知らない国民を呼び寄せる」の「あなた」は、共に「約束の救い主キリスト」です。異邦人はキリストを知らなかったのに、キリストが救い主だという神の約束を信じて集い、彼を王としてあがめ、救われるのです。

これは私達のことです。

 

6-11節 :< 神が成功させる >

 

 

6、7節で民に命じます。神を求めよ。呼び求めよ。自分のはかりごとを捨てて、神に帰れ。

自分の思い、はかりごとを捨て去ることは、神の憐みと赦しを得るために必要なことです。なぜなら、人が自分の思いを遂げようとする思いに拘っても、神の思いは人のそれを高く超えているからです。(マルコ11:24)「あなたがたが祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」イエス様は、勧めています。

人はパンを食べたいと望んでも思い至ること、出来ることは限られています。人に「パンを得よ」という神は、そのために雨を降らせ、地を潤し、種もみを育てて人に種を与え、人は種を蒔き、麦を育てて収穫し、最後は人にパンを得させるのです。

心の深みにまで沁み透るような憐みも、心の底から罪が赦されたと実感できるほどの豊かな赦しも、神にしかできません。神の与える力強いことばは、人の思いを越えて、神の思いを尽くして、必ずそれを成し遂げます。神はこれをただで与えると言われるのです。

 

12-13節 :< 世界の回復 >

 

 

「喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。」キリストに従う者たちは、救って下さった主の元から出て、新しいいのちを生きていきます。全ての自然がそれを見て喜んでいます。そこには喜びと平安があるのです。これが、キリストに救われた民に約束された豊かな生を楽しむ道です。

 

イザヤ書5章で、神が手間暇かけてぶどうを育てたのに、酸い葡萄しかできなかった時、神はその畑を見放して、茨やおどろが生い茂るのに任せました。救われた者に対しては、その茨やおどろが取り去られ、代わりにもみの木やミルトスが生えるのですが、これが神の憐みと赦しの証拠です。

茨は、とげのある低木。おどろは、ぼうぼうと乱れ茂ったやぶです。中に入っては身動きも取れません。更に体を動かせば傷だらけになってしまいます。

一方、ミルトスは背の高い木で、葉は良い香りを放ち、その実は痛み止めに使われて、「祝いの木」とも言われます。もみの木は、生命力の象徴で、聖なる木としてご神木などに扱われます。

 

「あなたがたは喜びをもって出て行き、平安のうちに導かれて行く。」

教会で礼拝を終えて、新しい一週間に向かって出ていく私たちの姿を示しているように思います。「山と丘は、あなたがたの前で喜びの歌声をあげ、野の木々もみな、手を打ち鳴らす。」

神が造られたもの、通りの木々も、空も、風も、鳥も私たちの前で喜んでいるのを感じてください。

(小室 真)