イザヤ書53章は苦しみに耐えた僕(しもべ)が末永く子孫を得ることが書かれていました。
その子孫への恵みの約束が54、55章に展開されます。54章1-17節をお読みします。
1-5節 :破壊されたエルサレムの回復
1節の「不妊の女」、「夫に捨てられた女」はバビロンに破壊されたエルサレム、イスラエルを指します。53章の主のしもべが来て取りなしてくれたことで、崩壊したエルサレムは回復されて繫栄するのです。民は増え、住む所を広げ、周りの荒れ果てた町も含めて復興していきます。ここでは、イスラエルの民がバビロンの捕囚から解放されてエルサレムに帰ること、神殿や町々を立て直すこと、それだけではなく、神の民全体の救いについて言っています。エルサレムを捨てた夫とは万軍の主ですが、またエルサレムを回復されるのも贖い主である全地の神、主なのです。
6-8節 :主はエルサレムを憐れまれる
神は、他の神を求めて離れて行くイスラエルの民を、離れていくのに任せました。そのことをイザヤは、「ほんの少しの間、あなたを見捨てた」、「顔を隠した」と表現しています。それでも破壊されたエルサレム、悲しみの中にあるイスラエルの民を見て、とても見捨てられない。と神は憐れんでエルサレムを回復しようと働かれたのです。
9-13節 :主の新しい誓い
イスラエルの民を憐れむ神は、新しい誓いをたてられます。その誓いは神にとってノアの日のようだと言われます。ノアの日の誓いとは、大水で全地の人と生き物を滅ぼしたあと「決して再び人のゆえに大地に呪いをもたらさない。再び生き物全てを打ち滅ぼすことはしない」とノアたちに約束して、雲の中に虹が現われるようにした日のことです。新しい誓いとは「わたしはあなたを怒らず、あなたを責めない。」というものです。その誓いは真実の愛に基づくものです。あなたがたは、アンチモンやサファイヤ、紅玉などの宝石の中に住む・・つまり王の子として生かされ、知恵が教えられ、平安が与えられるというのです。
14-17節:主はあなたを守る
神が誓われました。神はイスラエルを責めない。でもイスラエルの民を襲う者があります。虐げるもの、攻め寄せるもの、強力な武器、責め立てる言葉です。それを創造した神だからこそ、それらが機能しなくなるようにできるのだと、神は言われます。
さて、9節、「これはわたしにはノアの日のようだ」を考えます。
創世記8-9章。人の悪によって世界を滅ぼすことは二度としないと、箱舟で救ったノアたちに約束しました。「ノアの日のようだ。」・・
私達は大きな出来事があった時のことを3.11、とか9.11と呼びます。その日の出来事が強く思い出されます。主にとって、ノアの日は、その時に起こったことが強い感慨をもって思い出されることでした。
地上に悪が増大した時の怒りや、大水で世界を洗い流した時の悲しみ、神のことばに従ったノアの家族を見ていた時の気持ち、新しく始まった世界の動き。人の悪は手の施しようがない。けれど神にとって愛すべき存在。決して世界を滅ぼさないと約束したあの日の思いです。
イザヤ53:5「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた。」その時、ノアの日の気持ちを振り返りながら神は誓います。「あの時のように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めない。」
何があの日のようなのでしょうか。3つあります。
①人の心に悪しか思い浮かばない世界を洪水で洗い流したように、世界中のすべての人の悪をイエス様の贖いの十字架で洗い流しました。イエス様の十字架はノアの地球規模の大洪水を超える浄めの力があるということです。
②悪しか思い浮かばない人間そのままで、神が人間を受け入れる契約を一方的に誓われました。イザヤはこれを 真実の愛 と呼んでいます。
③ノアへの神の契約が固く守られているように、十字架によって、神は人間を怒ることなく、責めることがない。これは約束の確実性が同じだというのです。
9節「これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。」
人に条件を付けることなく、怒らず責めないという神の誓い。これが神の示された真実の愛です。
契約を越えた恵みの世界です。恵みとは、受ける理由がないのに一方的にいただけるもの。神はその真実の愛をあたえ、人はその愛を喜んで受ける。そういう愛し合う関係を持つことを神は望んでおられるのです。
(小室 真)