8章の終わり、「イエス・キリストにある神の愛からなにものも私たちを引き離すことが出来ない。」これが3-8章の結論でした。パウロは、この確信をもって異邦人の救いの為に働いていましたが、常に心の重荷となっていたのが、自分の同胞の救いでした。
パウロは、異邦人と同労者のユダヤ人と自分自身の救いには確信を持っていました。しかし、心労の種は異邦人に福音する先々で常に敵対するユダヤ人たちでした。3節でユダヤ人の同胞の為なら自分がキリストから引き離されて呪われても良いと発言するほど、ユダヤ人の救いは危機的状況だと感じているのです。
パウロは3章で、イスラエルには優れた点が色々あると言いながら「神のことばが与えられた」という一点しか挙げていませんでしたが4、5節で改めてイスラエルの民の優れた点を数え上げます。
その一つは、イスラエル人は、神の子とされていたことです。出エジプト記4章22節で神がモーセに命じてファラオに宣言させる神のことばがあります。「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。」とあります。
次に、出エジプトの間じゅうイスラエルは神の火の柱、雲の柱、幕屋に輝く神の栄光を見ていました。モーセを通して「神の契約」も「律法」もイスラエルに与えられ、幕屋での礼拝の仕方も教えられていました。約束とは、イスラエルの子孫に救い主メシヤが与えられるという約束のことです。アブラハム・イサク・ヤコブという父祖を持ち、そのルーツが明確なことは、自分の存在に自信を生みます。そのような民族・国民は他にいません。
更に、約束の通りメシアであるキリスト・イエスはイスラエルから出たのでした。肉によればキリストはイスラエルの民に属していますが、万物の上にあり、とこしえにほむべき神なのです。
「イエス・キリストは神である。」とはっきり宣言しているこの聖句、9章5節は力のある聖句です。イエス様は父なる神に従順な方ですが、愛なる方であり、神とともに世界を創造し、時間と空間を越えて存在し、神としての性質をお持ちの方です。
このように特別に選ばれたイスラエルの民にイエス様が救いをもたらしたのに、イスラエルの民は逆らい、祝福から外れされてしまうのでしょうか。このことが異邦人の私たちとどうかかわるのか、11章にかけて学んでいきます。
( 小室 真 )
パウロは自分の民の多くが救い主イエス・キリストを認めず、神の救いからこぼれてしまうことを深く悲しんでいました。申命記14章でモーセが「あなたがたは、あなたがたの神、主のこどもである。・・聖なる民だ」と言われていたのに、それが無効になってしまうのか、イスラエルを「自分の民とする」という神のことばをどう考えたら良いのか、創世記の神のことばと出来事を通して、パウロは思いをめぐらします。
パウロがたどり着いた結論は、「すべてのイスラエルの民がイスラエルではない。」というものです。
神はアブラハムに「わたしは、あなたの神、あなたの後の子孫の神となる」と約束していました(創世記17章7節)。アブラハムは、女奴隷ハガルによって息子イシュマエルがいましたが、アブラハムが百歳、サラが九十歳と高齢のときに、サラに生まれるイサクを神の民として契約すると神は言われました。アブラハムの子が全て、アブラハムの子孫、契約の民ではありませんでした。イシュマエルは契約の民とはされませんでした。
同じようにイサクの双子の息子たちについても神の選びがありました。神は兄弟が生まれる前から弟ヤコブを自分の民として選んでいました。実際に、イサクの家督を継いだのは兄のエソウではなく弟のヤコブでした。
神の栄光を受けるイスラエルの民は、人間の常識にとらわれず、子供たちの性格にも行いにもよらず、長子が継ぐという世の慣習にもよらず、父の好みにもよらずに選ばれ、同じ血族にもかかわらず選ばれない者がいたのです。
13節はマラキ書1章2、3節からのことばです。厳しい表現になっていますが、「ヤコブを一番に愛し、エサウを次に愛した。」という意味合いです。実際にエサウも神に愛され祝福され、四百人の部隊や多くの資産をさずかっていました。子孫のエドムは農耕や交易で潤い、エドム王国を作りましたが、神への信仰へは戻って来ることがありませんでした。キリスト誕生の知らせを受けてベツレヘム一帯の男の子を皆殺しにしたヘロデ大王が、エソウの子孫だったことは感慨深いものがあります。
( 小室 真 )
9章13節の「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という神の選びの計画を受けて、パウロは2つの問いに応えます。一つ目は、「選びの計画は平等ではない、神に不正があるのではないか。」というもの。二つ目は、神がご自分で選びから外したのに、「なぜその人たちを神が責めるのか。」という問いです。
最初の問、神の選びは、神の身勝手で不正なのか。
パウロは出エジプト記9章16節から引用して応えます。心の頑ななファラオを王として立てた理由を「わたしの力をあなたに示すため」そして「わたしの名を全地に知らしめるため」だと神は言っています。その目的は、イスラエルの民を救い出すためだけでなく、全ての人を救い出そうとする神の存在と計画を世界に知らせるため、特に直接ファラオに示すためでした。だから神に不正はない。「決して」不正はない。とパウロは宣言します。
二番目の問、神の意図に従って、イスラエルの民を解放せず、痛めつけるファラオを神は責めるのか。
18節の「神は人をみこころのままにあわれみ、またみこころのままに頑なにされる」とはどういう意味なのでしょうか。神は人を完全なものには造られませんでした。いろいろな違いと可能性が与えられた器です。更に自由意思まで持っているのです。神を受け入れる自由と受け入れない自由を持っています。神を受け入れる者は神にとって「あわれみの器」ですが、神を拒否する者は、神にとって「怒りの器」です。
人がご自分のあわれみを受け入れるまで、耐え忍んで待っておられる神の寛容にパウロは目を留めます。怒りの器である者が、自分の自由な意志の中で、神のあわれみを受け入れるようになることが神の意図なのです。だから、神は人が心をかたくなにして、神のあわれみを受けずにいることも許して、待っておられるのです。みこころのままとは、人の自由を尊重する神のこころのことです。
ファラオには、あの偉大なモーセを通して真の生きた神のことばが語られ、神のみ業を何度も見せられました。ファラオにはその神を認める機会が何度も与えられていました。神がファラオに示したものは、超自然的なパワーだけではありません。ファラオの自由意志をも許される神のあわれみの深さでした。
確かにファラオはエジプトの王で、神に祭り上げられていましたが、突然目の前に現れたモーセは40歳までその王宮で王の子でしたから、王宮内の様子も良く知り、立ち居ふるまいも王族らしいうえ、神の力をエジプト中に示している。圧倒されたのではないでしょうか。モーセに会うたびにむらむらとこみあげてくる対抗意識がファラオの心を繰り返しかたくなにしていったのかもしれません。神はそれでも彼が自分を認めるのを待っていたのです。それが神のあわれみだとパウロは言います。
神のあわれみを受けることは、ユダヤ人たちだけに与えられた特権ではなく異邦人にも与えられていました。
( 小室 真 )
ユダヤ人だけでなく異邦人の中からも神のあわれみを受けるものが召されることを、更に旧約聖書の中に確認しようとします。ホセアとイザヤという二人の預言から解いています。
ソロモン王のあとイスラエル王国は、北イスラエルと南ユダに分かれました。ホセアは、北イスラエルの預言者、イザヤは南ユダの預言者です。
主は、ホセアに、姦淫の女と姦淫によって生まれた子らを引き取れと命じました。彼はゴメルを妻にめとりました。ゴメルはホセアに男の子を生みました。この長男はホセアの実の子で「イズレエル」と名付けられました。彼女はまた身ごもり、女の子を生みました。「ホセアに女の子を生んだ」とは書かれていません。姦淫によって得た娘だということです。主は娘に「ロ・ルハマ(あわれまない)」という名を与えました。同じように姦淫によって息子を得ると「ロ・アンミ(私の民ではない)」という名が与えられました。ゴメルは情夫と駆け落ちして、最後には奴隷のような状態になっていました。ところが、主はゴメルを買い取って愛すようにホセアに話します。彼はゴメルを買い取って、共に住み、彼女を長く愛したのです。(ホセア1-3章)
ホセアの家庭は、神の愛からは程遠い悲惨な家庭でした。妻が姦淫に走り、姦淫で生まれた子を、「私はあわれまない」「私の民ではない」という名前で呼んでいたのです。神がホセアに言って、ゴメルを買い戻したとき、娘を「憐れまれる者」息子を「わたしの民」と呼んで、ホセアの家を回復させたのです。
神から離れ、異教の神に礼拝していた北イスラエルの民、「私はあわれまない」「私の民ではない」としてきた民の中に、神によって回復されて「憐れまれる者」「わたしの民」とされる者が出てくることを神はホセアを通して示しました。ホセアは、主の愛の深さと痛みを、自分の人生を通して味わい、人々に伝えたのです。
29節はイザヤ書1章のみことばです。ここでイザヤは、ソドム・ゴモラの民にむかって預言します。「洗え。身を清めよ。私の目の前から、あなたがたの悪い行いを取り除け。悪事を働くのやめよ。・・たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。(イザヤ1:16-18)」これは、異邦人の中からも神のあわれみを受けるものが召されることを示しているのです。
神の祝福がユダヤ人にも異邦人にも広げられていることを、二人の預言者を通して、パウロは教えているのです。
( 小室 真 )
「神はご自分の民でない者を自分の民と呼び、愛されない者を愛される者と呼ぶ。どんなに神から離れている者をも神は自分の民、自分の愛する者として下さる。」この神の側の思いをパウロは伝えました。それでは、救いを求める人の側に何か原因があるのでしょうか。「信仰によってではなく、行いによるかのように追い求めたから」だというのがパウロの結論です。
それを人に分からせるために神は、「つまずきの石、妨げの岩」を備えておられました。イザヤ書8章14節にそれは預言されていました。「主が聖所となる。しかし、イスラエルの二つの家にとっては妨げの石、つまずきの岩となり、エルサレムの住民には罠となり、落とし穴となる。多くの者がそれにつまずき、倒れて打ち砕かれ、罠にかかって捕らえられる。」
このつまずきの岩はイエス様のことです。イエス様が生まれて宮参りをしたときシメオンが祝福して言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れたり立ち上がったりするために定められ、また、人々の反対にあうしるしとして定められています。」(ルカ2:34)
そして、イエス様はご自身を指して、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。』」(マルコ12:10、11)と言われました。
更に、イエス様は最後の晩餐の時に弟子たちに語りました。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(ヨハネ14:23-24)
イエス様はイスラエルの地をめぐって、神の思いを伝え、律法の土台を教え、十字架を通して神の愛を示されました。そのイエス様を愛して信頼することから律法が始まります。律法が目指すのはイエス様の救いなのです。ですからイエス様を愛する人は、律法を守ることに縛られません。律法を守れなかったとしてもその理由をご存じで常に赦しが用意されています。イエス様を愛さない人は、神に対して熱心だとしても、律法を守れる自分を誇るっているだけです。そこに神へのへりくだりはありません。その姿は、イエス様に従う人々を迫害していた、かつてのパウロ自身の姿でした。本当の知識に基づく神への熱心ではなかったことを痛みを覚えながら語っているのです。
( 小室 真 )