ローマ人への手紙 6章



1-4節

パウロはバプテスマについて語ります。

  

パウロは5章で、罪が明確になった所に神の恵みが満ち溢れると言いました。だったら罪の中に留まることが良いことだと誤解する人がいないように、恵みの意味を教えています。

 

『キリストを信じた人、イエス様につくバプテスマを受け入れた人は、キリストの死にあずかる者となったのだ。イエス様とともに葬られたのだ。この世に対して死んで、よみがえったイエス様のように、神から与えられた新しいいのちに生きるのだ。』パウロは明言します。

 

イエス様のバプテスマは、死んで、葬られ、復活することを示しています。洗礼は、イエス様と同じように死んで、葬られ、復活することを一括して目に見える形にしたものです。「キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた」とは、「キリスト・イエスに結び付くバプテスマを受けた。」という意味です。つまり私たち自身は、実際には死んでいませんが、私たちはイエス様を信じることでイエス様の死と葬りと復活が私たちの内に形になって、イエス様の新しいいのちに入れていただいた。という意味です。

 

エジプトの地で苦役に縛られた奴隷であったイスラエルの民が紅海を通って約束されたカナンの地で律法と自由を与えられた出来事は、イスラエルの民の救い、バプテスマを暗示していました。ただ、イエス様のバプテスマは、イスラエルの民だけでなく全ての人を罪の奴隷から自由の民へと救い出す道です。

 

すでに私たちは罪の世界に対しては死んでいますから、罪責感で縛る力も、誘惑で縛る力も、恐れで支配する力も、実際には私たちには及ばないはずです。イエス様の死によって私たちは死んでいるのです。そんな力を感じたら「私は死んでいます」と言えるのです。新しいいのちを生きている私たちに働く力は、神の愛とみことば、恵みと喜びです。私たちは、その力の中で生きるのです。

(小室 真)

 

5-11節

パウロがバプテスマについて命じていることは何でしょうか。

 

前回パウロは、イエス様につくバプテスマを受け入れた人は、神から与えられた新しいいのちに生きるのだ。と教えました。5-11節で、その内容を詳しく説明しています。

 

6-8節、9-11節の二つの部分からなっていて、両方とも、「私たちは知っています。」で始まっています。何のことかというと、6-8節では、イエス様が十字架で死なれたように私たちも罪の世界に死んだこと。9-11節では、イエス様がよみがえって生きておられるように私たちも神様に対して生きているということです。このことを「私たちは知っています。」とパウロは言うのです。

 

確かに、このことは、聖書に書かれ、教会で教えられ、聖餐式の度に自分の口で告白していることです。クリスチャンの誰もが、知識として知っていて、確かに信じていることです。「私たちは知っています。」という言葉はパウロの宣言のように見えますが、「あなた、知ってますよね~」と念を押しているように聞こえます。

 

この世に死んだ私たちに、罪は何の力もない。私たちを縛ることは出来ないこと。私達が神様に対して生きていることを、ハッキリと意識しているかとパウロは問いかけているのです。

 

神様に対して生きているとは、神様に目を向け、耳を傾け、思いを向けることを常に選び取る生活をすることです。色々な出来事や、人との関わり合いそのものに心を奪われるのではなく、その事々の背後におられて、関わる人々を、そして、私たちを見ておられる神様、時に苦しみ、時に喜ばれている神様を意識した生き方です。パウロはその新しい生き方を「認めなさい。」と命じているのです。

(小室 真)

 

12-14節

「あなたたちは神に対して生きている者だと、認めなさい。」と命じたパウロは、具体的な方法を教えます。

 

サーカスの象は、足を鎖につながれています。その鎖の先は杭につながれ、地面に打ちこまれています。自分の力で杭を引き抜いて脱出することは可能なのに、像はけっして逃げません。鎖につながれるとどうやっても逃げられないことを小さな頃に、繰り返し体験してきたので、大きくなって杭ごと抜く力があるのに、それを試そうともしなくなるのです。

 

人間も同じです。罪の杭につながれて、杭の周りをぐるぐるまわってしまうのです。

キリストを信じた人、イエス様につくバプテスマを受け入れた人が、神から与えられた新しいいのちに生きる方法として、「あなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げる」ことを、パウロは提言します。

 

自分の手足、自分自身を神に捧げるということは、自分が繋がれた杭を地面から引っこ抜いて、天に差し込むことです。自分の目も耳も口も手も足も神に捧げて、神様の所につながれたものにするということです。私たちが、地につながれた時は行動が制限されていましたが、今は天に繋がれているのですからどこまでも自由に動けるのです。そして、自分の目や耳や口や手足が、神様の見方、神様の聞き方、神様の語り方、神様の行い方にならっていくようになる。それは罪につながれていた時より、まるきり自由な状態なのです。

 

具体的には、聖書を読む時に、神様の愛を感じられるようになります。雨や風、日の暖かさや鳥のさえずりが、自分に語り掛けているように感じるように、今迄なんとも思っていなかったことが、強く心に訴えてきます。

既に皆さんは、手足を含めて自分自身を神様に捧げているのですから、目も耳も口も手も足も神に繋がれていることを改めて感じてみましょう。

(小室 真)

 

範囲が少し広めです。どこかで聞いたような問いかけが・・・。

 

6章1節で、『恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。』と聞いていました。

15節では、『恵みの下にあるのだから、罪を犯そう、となるのでしょうか。』同じような問いかけに聞こえます。

1節への答は、『あなたがたは、・・恵みの下にあるのです。』でした。15節の問いは、1節の答を受けての質問となっています。その答えは、恵みの下にあることと罪を犯すことが一致しない。でした。

 

当時、ローマ帝国では人口の半分以上が奴隷でした。教師、会計士、医師、接客、労働者の多くも奴隷でした。そこで人間的に分かりやすいだろうとパウロは奴隷の譬えを出しました。周りに奴隷のいない現代では、何に従って行動しているか、選択しているかという規範で奴隷の状態について考えた方が分かり易いと思います。

 

行動の規範は人それぞれです。今までの習慣やルール、金銭判断、効率化、モラル感、誰かに言われた言葉が規範になったり、誰かに喜んでもらいたいという思いもあります。これらの判断基準に心が強く捕えられることが問題です。基準を外すと人を罰し、又自分自身を罰することになり、行きつく先は死です。

 

一方、神の恵みの下では、イエス様は何を望んでおられるかと常に聞きながら判断していくようになります。習慣やルール、金銭判断、効率化、モラル感も総動員して判断しますが、規範はイエス様です。もしすべてのことから外れたとしてもそこには赦しがあります。

 

イエス様は何を望んでおられるかと聞く時に、手放すもの、変えるべき習慣、従うべきみことばに出会います。こうしてイエス・キリストとの距離がさらに縮まってきます。

 

19節の『聖潔』は、霊的な死を一切含まない世界、神の愛といのち、キリストの慰めと癒しが溢れる世界です。神の恵みの下にいることによって私たちはそこに至ることが出来ます。行き着く所は永遠のいのちです。

(小室 真)