4章まで、全ての人はイエスのよみがえりを信じることで義と認められ救われるとパウロは説明してきました。これから始まる5章から8章は、信仰によって義とされた私たちの新しい生き方がどんなものか、そして死、いのち、キリスト、聖霊について語っています。
今日のみことばは、この5-8章の導入部分で、その要素が凝縮されています。信仰によって義とされることで、神との平和があること、恵みを得ること、神の栄光に預かる望みを喜べること、たとえ苦難にあっても希望があること、そして聖霊による神の愛が注がれ続けることです。
さて、聖書を読む時大切にしたいのは時制です。過去か現在か未来か、そしてそれが完了しているのか継続しているのか注意して読むと新しい発見があります。1節の、信仰によって私たちが義と認められた。これは過去のある時に一回だけ神が私たちになさった事を示しています。続く、「神との平和を持っている。」は、平和をもっているという現在の状況を示しています。
それでは、「キリストによって、神との平和を持っている」とは、どういうことでしょうか。
私たちがイメージする神は、剣を持って私たちに向かって怒る神ではないということです。私たちがイメージする神は、十字架にかかられて全ての罪を贖われた人の子イエス・キリストと、そのキリストをよみがえらせて私たちの王とされた、憐み深い神だということです。
2節の「神の栄光にあずかる望み」とはどういうことでしょうか。
今北京パラリンピックが開かれています。そこで日本人が活躍してメダルを獲得すると日本人は自分がメダルを取ったわけでもないのに大喜びをします。日本人として我がことのように喜ぶのです。
同じように、争いや殺戮、貧困や暴力があるこの世界に、神は平和や希望や慰め、真理のことばを通して神の栄光が表わされると、私たちは神の民の一人として喜ぶのです。私たちは、その栄光が達成することを期待して祈りや色々な行動を通して関わることが出来ます。神の民の一人としてそれに関わるようにと、今ここに置かれているのです。
皆さんも今のウクライナの苦しみと悲しみを、我がことのように感じておられるのではないでしょうか。神はこの地に平和を実現するために、神の国の民の祈りを必要とされています。ウクライナに神の栄光が現れるように、私たちは忍耐をもって、希望をもって行動し祈り続けるのです。
(小室 真)
「希望は失望に終わることがありません。」
イザヤ書28章16節の聖句です。ローマ書では、5章以外に9章33節、10章11節でも引用されています。訳が少し違いますが、元々のギリシャ語は同じです。パウロがこの言葉を大切にしていたことが分かります。
当時、異邦人に律法を守らせるべきだとユダヤ人が教会内部を荒し、キリストを主と信じる者は皇帝に刃向かう者だと批判され、教会は内からも外からも迫害を受けていました。パウロが戦い続けることが出来たのは、希望を失うことがなかったからでした。パウロは、自分の体験からキリスト者にとって揺るがない希望の大切さを感じていました。パウロはなぜ失望に終わらないのか、その根拠を教えています。
「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」
その経緯は使徒の働き26章9~20節でパウロがアグリッパ王の前で説明しています。イエスに従う者に激し怒りを燃やして迫害し続けたパウロは旅先で強い光で失明しました。そこでイエス様から自分に従うように呼び掛けられたのです。パウロは自分自身を罪人の頭であったと認めていたことから、善良な人々を迫害したパウロの心の底の痛みが激しかったことが分かります。イエス様に受け入れられ、その罪を赦され、癒されたのです。イエス様が自分の罪のために死なれたことを一番痛感していたのがパウロでした。
もう一人思い出されるのが、クレネ人シモンです。マルコ15章21節:ローマ兵に捕まったシモンはイエス様の十字架を無理やり背負わされました。群衆の中にいた時、イエス様は憎むべき罪人、罵られて当然の一人の男に見えました。群衆の面前に引き出されると景色は一変します。目の前のイエス様の背中は鞭の打ち傷がめくり上がり血を吹いています。イエス様は痛みに耐えながらビアドロローサを倒れては、這い上がり、自分から十字架に向かって歯を食い縛って進んでいるのです。イエス様に向けられた、狂ったような群衆の罵りの声、蔑みの眼差し、唾が自分に向けられているように思われます。血で染まった十字架を背負いながら、ゴルゴダの処刑所に向かって歩むイエス様の姿にシモンは理由が分からないまま心を打たれ、主に従う者となりました。
人間に対する神の愛、これは人の持つ愛情や情けや憐みとはかけ離れたものです。いのちをかけたキリストと、その愛を注いで下さっている神が、私たちを必ず救って下さる。その希望が失われることがないという確信をパウロもクレネ人シモンも得たのです。
(小室 真)
5章5節で「希望は失望に終わることがありません。」と言われましたが、クリスチャンも多くの苦難や誘惑の中で自信を失うことがあります。クリスチャンとなった私たちですが、聖書の教えは守りきれないと強い罪責感に襲われることもあるのではないでしょうか。
9節、10節でパウロは私たちの過去と現在と未来を比べています。私たちの過去は罪人であり神に敵対する者でした。それが今や私達の為に十字架で死なれたイエス様によって義とされ、神と和解されている。そしてすでに救われ、神と和解しているのであるから、なおいっそう未来において、神の怒りから救われるのは確かなことだと説明しています。
私たちは2段階で救われます。最初に御子の十字架の死によって神と和解させられました。この世では神社に願をかけて願いがかなわなくても神のせいにする人はいないでしょう。賽銭を入れて祈願し、絵馬をかけ、おふだをもらう人を弱い人と言う人はいないでしょう。この世は神社の神様とは敵対関係にないのです。
ヤーウェの神に対する以前の私たちは、自分にとって好ましくない事を神の仕業と考え、神に頼ることは弱い人間のすることと捉え、失敗すれば裁かれることを恐れ、神を避けていました。私たちは神に敵対していたのです。自分の罪のためにイエス様が十字架で死なれたことを信じた時、イエス様によって神の怒りから救われました。敵対関係にあった私たちに対して、神様のほうから手を広げて迎え入れて下さって、和解が出来たのです。
次に、私たちは御子のよみがえりのいのちによって救われるのです。これは、終わりのさばきの時にさばかれず、主と同じ霊のからだを受けることが約束されているのです。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)まだそのからだは受けていませんが、死を恐れる必要はありません。
神の仲間とされた私たちは、何があっても神の怒りを受けることはありません。このからだが死を迎えても、本当の死を恐れる必要がなくなった私たちは、神を喜ぶ者となりました。もし駅前に神様が来られると聞いたら、うれしくて会いに行こうと思いませんか。目の前に来られたら歓声を上げたい、手を振りたいと思いませんか。皆さんの中には神を喜ぶ気持ちであふれているのです。そしてその気持ちは、たとえ苦しみの中にあっても強く生きていく力なのです。「主を喜ぶことは、あなた方の力です。」(ネヘミヤ8:10)と言われています。
(小室 真)
ローマ人への手紙は、パウロが話した内容を書記が筆記して書かれたものです。机の前を行きつ、戻りつ思考を整理しながらパウロが話し、弟子のテルティオが机に向かってカリカリと羊皮紙に書き写している様子が思い浮かびます。
パウロは、アダムとイエス様の対比をしかけたのに、思い返して、まずアダムの話をし、次にイエス様のことを話し、改めて最初に話しかけた二人の対比に戻っていきます。12節はその流れの頭の所です。対比に戻る所が18節。12節も18節も「ちょうど・・・と同じように」という同じ言い回しになっているので分かり易いと思います。
罪について、パウロは2から3章でも語って来ましたが、罪とは何か改めて教えようとしています。モーセを通して、神を敬え、安息日を守れ、父母を敬え、等の律法が与えられて初めて、律法を犯す、罪を犯すことがはっきり認識されるわけですが、その律法が与えられる前から罪はあった。全ての人は罪を犯したとパウロは言います。
最初の人アダムはサタンの言葉に魅かれ神のようになることを望み、神のことばに背いいてしまいました。ついにはエデンから追い出されてしまいます。罪を犯した者は必ず死ぬと言われたように、それ以来、人は死ぬ者になりました。「死はアダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも支配しました。」全ての人の思いは自己中心で、神を排除するという罪を犯しやすい性質も習慣も伝統も引き継いでいて、実際に罪を犯して来ました。律法を持たない日本人の私たちも同じです。この罪は個人的にも教会としても、神の前で悔い改める必要があります。
一方で、生まれたばかりで神も律法も知らない、悪事を働いたこともない子供も死に支配されています。神に従い、律法を守って来た預言者達、ノアもアブラハムもモーセも死にました。個人の行動や思いに関わらず、人類代表のアダムが罪を犯したことによってすべての人が死に至る罪の下に、死の支配の下に置かれているのです。一人の人によって罪が世界に入ったのです。
この罪は、個人個人が悔い改めることで赦されるものではありません。アダムに代わる方、来たるべき方、罪のない方に、人類代表になっていただくしかないのです。
(小室 真)
アダムの一人の違反から始まった違反の世界とイエス様から始まる恵みの世界の、三つの違いをパウロは語っています。
第一の違いは、15節。「なおいっそう満ち溢れる」という点です。これは量的、質的な違いです。死は、恐れと虚無感で人を支配しますが、神の恵みは死の力を無効にして、更に喜びを与える。イエス様を通して、イエス様の背後におられる神様の圧倒的な恵みが与えられるというのです。違反の世界では私たちは捨て去られてしまいますが、恵みの世界では、道に迷って彷徨っていた私たちを神は探し出して愛されます。神に愛されている事を知って安心し、見るもの聞くものが変わってきます。砂を嚙むような食事が味を帯びるようになり、やかましく聞こえていた鳥の声が自分に語り掛けて聞こえてくるようになって、その喜びを伝えたくなります。満ち溢れる状態です。
第二の違いは、16節。方向性です。アダムの場合は一人の罪によって、全ての人が同じ方向の罪人とされましたが、恵みの場合はイエス様が罪人として十字架にかかられたことで罪を犯した全ての人が、反対方向の義と認められるのです。更にイエス様が死からよみがえられたことで、私たちも死の呪いから解き放たれます。私たちは恵みによって神の民に加えられ、神の国の市民権を得たのです。
第三の違いは、17節。私たちの立場です。裁きの世界では、人は死によって支配されていましたが、恵みの世界では、人がいのちによって支配するようになります。私たちは奴隷から主人に変わり、その力の使い方も、死からいのちに代わるというのです。例えば、「毎日聖書を読まないと罰される」と人を縛るのが裁きの世界です。せっかくの恵みが苦しく灰色になってしまいます。毎日聖書を読んだら生活が豊かになる。たとえ毎日でなくても・・と喜びと慰めで行動を促すのが、恵みの世界です。
「いのちにあって支配する」ということばがあります。創世記1章28節で「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。』」アダムが罪を犯す前から、神が人に与えていた役割です。創世記で与えられていた人の役割がイエス様によって、実現できるようになったのです。
(小室 真)
18-19節では罪過による死と恵みの賜物の似ている所を説明しています。ここに、3つの見解があります。
「一人の違反によってすべての人が不義に定められた」のは確かです。この「すべての人」が全人類を指すことでは皆さん一致しています。ところが、「一人の義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられます。」というみことばの、「すべての人」の解釈が分かれているのです。
一つはイエス様を神の子と信じた“すべての人”とする見解。もう一つは神の子と信じた人の内でさらにしっかりとイエス様に従う“すべての人”とする見解。最後に、文字通り、無条件に“全人類”とする見解です。皆さんはどう考えますか。
私は、全人類を指すと考えるのが適切ではないかと考えています。前の15節で恵みの賜物と違反の違いについて、「キリストの恵みによる賜物は、なおいっそう、多くの人に満ちあふれる」とパウロは説明していました。違反が全人類に及ぶのであれば、なおいっそう満ち溢れるはずの恵みの賜物は、当然全人類に及び、さらに他の被造物にまで溢れていくのではないでしょうか。
イエス様を信じた人も災害に襲われ苦難にぶつかることもあります。その中で信仰が揺らいだり、イエス様のことばに従えなくなったりすることもあります。いつか与えられた恵みが取り上げられるかもしれないという不安があったら、恵みの賜物と言えるでしょうか。
人としてこの世に生まれ、全ての人の為に十字架で死なれて、よみがえるというイエス様の義の行為によって、信じない者にも、悪事を働く者にも恵みの賜物が与えられるのです。イエス様は十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか分からないのです」と、ご自分を十字架につけた者達の為に神に祈られました。イエス様の祈りです。ましてや十字架の上での祈りです。これが無駄になることはないと思うのです。
すると、誰でも彼でも全ての人に恵みが与えられるのなら、イエス様のことばに従う事、福音を伝える事に意味があるのか、好き勝手な生活をしていてもいいのか、という疑問も起こります。
福音は、「イエス様を王とする神の国がこの世界に来た」と人々に伝えることです。この福音を受け入れた人は神の国に属して、今を生きながら、イエス様のもとで神様が世界を完成させようとする働きに加わることが出来るのです。福音を広げることは共に働く仲間を増やすことです。そして神の愛の支配が世界に広がって行くことです。困っている人を助けたり、平和の為に祈ったり活動したり、地球の環境を守ったり、他の生物を守ったりと神の国の完成の為に働いている人々がいます。そういう活動が、個人の思いからはじまったとしても、神様が望んでおられてイエス様も聖霊様も共に働いておられる。たとえその人が今イエス様を信じていなくても、その働きを神が喜んでおられると伝えることも福音だと思うのです。
イエス様のことばに従う事、福音する事は私たちに生きる場所を与え、希望と喜びを与えてくれるのです。
(小室 真)
突然モーセが出てきました。
今迄、アダムに始まる罪過による死と、イエス様による恵みの賜物の比較をしてきましたが、パウロはユダヤ人が頼りにするモーセに話を飛ばします。「律法が入って来たのは・・・」モーセの名前は直接出ていませんが、律法と言えばモーセ、モーセと言えば律法です。
律法と聞くとユダヤ人は安心するのですが、「律法は違反を増し加えるように働く」とパウロに言われると、律法を悪く言われているように、ユダヤ人の耳には響いたでしょう。
律法がなければ、悪かったかな~と何となく感じながらもうやむやにしてきたことが、律法に示されることで、はっきり違反だと分かります。律法を目の前に置いて、自分を振り返ると、それまで知らずに犯してきた自分の罪に気が付きます。さらに、思いもしなかったことが律法に違反していることも示されます。誰もが盗むのは悪いと知っていますが、人の物を欲しがることが違反に当たるとは思い至りません。律法はそれを明らかに示しています。(出エジプト20章1-17節)このように律法は違反を増し加えるように働いて、律法を守れない人間に対して死を突き付けるのです。
パウロは、そこに恵みが満ち溢れると言います。満ちて、満ちて、満ちて、罪も死も押し流してしまう程に満ち溢れるという表現です。恵みは、棚から牡丹餅ではありません。ふさわしくない者にこそ与えられるのです。神が示した道を歩めなかった者の罪を認めないで、義とするだけでなく、永遠のいのちへの道へと歩ませてくれるのです。
なぜ人の物を欲しがってはいけないか、私たちの助け手、聖霊様は私たちに教え、私たちが欲しがらずに済むようにしてくれます。なぜ自分の為に偶像を造ってそれを拝んではいけないか教え、イエス様を送られた神の愛こそが本物であることを教えてくれます。
うつろで、なにかと満足できない心を満たすことが出来るのは、あなたが神に愛されていることを知ること、心の中でイエス様の手をしっかりと握りしめることなのです。愛の神の恵みは私たちを責めることはないと安心させ、心を満たして、主イエス・キリストによって永遠のいのちに導いてくれるのです。
(小室 真)