ローマ人への手紙 4章



1-5節

この前の3章21節で、「律法を行うことによっては神の前に義と認められないことが、律法と預言者たちの書によって証しされている。」とパウロは説明していました。

 

パウロは律法と預言者の書である旧約聖書からそれをあかししている内容を4章で紐解いていきます。パウロは、その代表例にまずアブラハムを挙げました。

 

アブラハムは神の友と呼ばれ、彼によってイスラエルの民は神の民となりました。アブラハムによって世界中の国と民族は祝福を受けました。ユダヤ人はたとえ自分は誇れなくてもアブラハムのことは誇りに思っていたのです。

 

創世記26章5節で、イサクを祝福する理由を「アブラハムがわたしの声に従い、わたしの命令と掟とおしえを守って、わたしへの務めを果たしたからである。」と神が教えています。この聖句からユダヤ人はアブラハムの行いを神が義と認められていると考えていました。なんといってもアブラハムは神のことばに従って一人子イサクをいけにえに捧げようとしたのですから。

 

ところがパウロは、創世記15章6節を引き合いに出しました。イサクが生まれるかなり前の段階で神は「あなたへの報いは非常に大きい。」と言い、アブラハムに満天の星を見せて「あなたの子孫はこの星のようになる。」と教えました。そこで『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。』と書かれている所です。アブラハムが神の声に従い、その命令と掟とおしえを守るようになる前に、神はアブラハムを義と認められました。

 

ここの「認める」という言葉は、アブラハム本人の持つ義を神が正しく評価して義と認定したという意味ではありません。アブラハムに義があろうとなかろうと、彼が神を信じたことによって義であると言ってくれた。ということです。ですからアブラハム本人も神に対して何も誇る点がなかったのです。

 

もしアブラハムの行いを認めようとするのであれば、その報酬は行いに応じて払われるべきものですが、実際にアブラハムが受けた恵みは、すべての国の父という名誉と、満天の星の数ほど多くの子孫と、豊かな土地でした。

 

義とは程遠い者を義であると言われる方が報いを下さるとしたら、それは行いに応じたものではありません。私達には身に余るほどの神様からの恵みです。働きがない者でも神を信じる者には、その恵みが与えられるのです。

(小室 真)

 

6-8節

ローマ3章21節で、「律法を行うことによっては神の前に義と認められないことが、律法と預言者たちの書によって証しされている。」とパウロは説明していました。

 

まずパウロは、1-5節で創世記15章6節をその証しの具体的な例として挙げていました。神はアブラハムに満天の星を見せて「あなたへの報いは非常に大きい。」、「あなたの子孫はこの星のようになる。」と教えました。そこで『アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた。』と書かれている所です。ここの「義と認める」という言葉は、アブラハムの行いがなくても、彼が神を信じたことによって義である者の群れに加えてくれた。ということです。

 

2つ目の証しの例としてダビデの言葉を挙げました。ダビデもユダヤ人が誇る偉大な先祖です。でもパウロが語ったのは、ウリヤの妻バテシバと姦淫し、夫ウリヤを戦死させた罪を悔い改めたダビデの歌、詩篇32篇1-2節でした。ダビデのマスキール(教訓の歌)です。

 

3-7節でダビデは自分の罪を神様に指摘された時、神様の前に黙り続け、自分の罪を認めないでいる間ひどく苦しみました。ダビデは耐えられなくなって神様の前で自分が悪かったことを認めました。すると神様はダビデを赦して下さったのです。預言者ナタンは「主はあなたの罪を除かれた」と宣言しました。罪の苦しさからの解放は喜びの声で溢れていました。

 

8-12節でダビデは罪の赦しの教訓を語ります。8節以降の「あなた」は読者であるユダヤ人です。ダビデは、ユダヤ人が自分の罪を認めて神様に信頼することで罪が赦され、喜びの中に置かれることを教えているのです。

 

ダビデがこの詩を詠んだ時「あなた」の中に私達、異邦人は加えられていませんでした。でもイエス様がこの世に人の子としてお生れになって、十字架につけられ、死からよみがえられたことで私達もユダヤ人と同じように神の民に加えられることが可能になったのです。

 

罪を犯した私達も、神の前に罪を告白することだけで、その罪は明らかであるけれど、神様はその罪を認めず、義なる者の仲間に私たちを入れて下さるのです。

(小室 真)

 

9-12節

どうやって数えたかわかりませんが、現代でも割礼を受けている人が世界に2億人もいるそうです。日本の人口の1.7倍です。

さて、ローマ4章1―8節で律法と預言者たちの書から、ユダヤ人が誇る偉大な先祖アブラハムとダビデが行いに関わりなく神に義と認められたことをパウロは説明してきました。アブラハムもダビデも割礼を受けていましたから、神に義と認められることと割礼との関係をパウロは改めて確認しなければと感じたようです。

 

ここでパウロはユダヤ人にとって全く新しい、二つの見解を示しました。一つは、割礼を受けることはモーセの律法を守ることだという従来の考えを断ち切って、モーセより四百年前のアブラハムの時代に割礼の原点を戻した点です。パウロの時代、使徒の働き15章1節で、「モーセの慣習にしたがって割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と当時のユダヤ人たちは言っていました。確かに出エジプト記でもレビ記でも割礼が求められています。

 

しかし割礼の始まりは、創世記17章アブラハムが99歳、イサクを授かる前年のことでした。17:11「あなたがたは自分の包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたとの間の契約のしるしとなる。」と神様はアブラハムに言われたのでした。アブラハムの割礼を知識と知っていてもモーセの律法を自分の存在のよりどころにしていたユダヤ人にとって衝撃だったでしょう。

 

もう一つの見解は、アブラハムが神から義と認められたのが、割礼を受ける14年前、創世記15章、彼が無割礼の時だったことに目を留めた点です。割礼は、無割礼の状態で神に義と認められたことのしるしとして与えられたものでした。

 

アブラハムが、無割礼の状態で神に義と認められたのは、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、また割礼を受けながら、割礼に関わらず信仰にしたがって歩む人たちの父となるためだったのです。割礼を受けようと受けていまいと、アブラハムの信仰の足跡に従って歩むことが義と認められるのです。これもユダヤ人にとって反論しがたい説明でした。

 

聖書は割礼を人の心の問題だとしています。旧約聖書、申命記30章6節では、「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心に割礼を施し、あなたが心を尽くし、いのちを尽くして、あなたの神、主を愛し、そうしてあなたが生きるようにされる。」と語り、新約聖書コロサイ2章11節で「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨てて、キリストの割礼を受けたのです。」

 

イエスを神の子と信じることで私たちを生かして下さる神の恵みの中に私達が置かれていることを思い起こし、心を尽くし、いのちを尽くして神を愛し、兄弟姉妹を愛する思いに満たされたいと思います。

(小室 真)

 

13-17節

トンガの大規模な噴火で世界中に津波が押し寄せました。地球はまるで生きているようです。そのスケールの大きさと奥行きに比べて人一人の小ささを思い知らされますが、神は人間一人一人を喜んで創造し、喜んで見つめておられます。

 

パウロは、アブラハムとその子孫を世界の相続人にするという約束を示しました。ところが、この約束はアブラハムへの約束の中に明確には見当たりません。

 

アブラハムへの約束は何だったでしょうか。創世記の12章、13章、15章、17章、18章、22章に似た約束が重ねて書かれています。まとめると約束は4つになります。

第一は、「あなたを大いなる国民にする」

第二は、「カナンの土地を所有させる」

第三は、「あなたはわたしの民となり、わたしはあなたの神となる」

第四は、「地のすべての国々は、あなたによって祝福される」

というものでした。

 

どれをとっても世界の相続人にするという約束と直接つながりそうもありません。

世界の相続人にするということばは、創世記1章28節に出てきます。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地の上を這うすべての生き物を支配せよ。」神がアダムとイブに命じたことばです。

 

これは神が造られた世界の管理を委ねる、つまり世界の相続人にするという内容です。ところが、アダムとイブは神のことばに従えませんでした。世界の管理を委ねる相手が不在になっています。神は世界を管理させて世界を相続させることを成し遂げようとしていました。そのためにアブラハムを導き出し、祝福し多くの約束を与えてきました。世界の相続はその4つの約束の延長上にありました。大いなる国民として、土地を与え、自分の民とし、世界中に祝福をもたらす者とするという約束です。

 

それで、14節で「律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。」とパウロが言っている意味が分ります。アダムとイブのように約束を守れるかどうかということでは、人は相続人にはなれなかったのです。その約束を破ったことで神の怒りを招いてしまいました。神はアブラハムのように信仰に倣う人々を求めておられたのです。

 

まず神の民であるアブラハムの子孫達、律法を持ってそれを守っていることをアイデンティティーとしている者と、律法を持たないけれども、アブラハムの信仰に倣う者には、その恵みが与えられるのです。

(小室 真)

 

 

17-22節

オリンピックでは、メダルを取った選手だけでなく、メダルが取れなかった選手たちの活躍、努力、コメントにも心を動かされる話題が沢山あります。良く生きるために、みんな自分と真剣に向き合っていることに感動を覚えます。

 

アブラハムもいかに生きるか神と自分に真剣に向き合った一人でした。

今まで割礼を受ける前のアブラハムの信仰を見て、神は、彼を義として、「多くの国民の父にする」と約束していたことを学んできました。パウロは改めてアブラハムの信仰とはどういうものだったのか語ります。その信仰とは、望み得ない時になお望みを抱いて信じるというものでした。

 

具体的には、

第一に、死者を生かす神を信じ、

第二に、無いものを有るものとして召される神を信じ、

第三に、約束したことを実行する力のある神を信じました。

 

まず、死者を生かす神です。100歳のアブラハムも90歳の妻サラは子供を産むという点からするとすでに肉体的には死んでいるのに等しい体ですふぁ、それを神は生かして、実の子を得させてくれるという信仰です。

 

次に、存在しないものを存在するもののようにお呼びになる神です。まだ子供が宿るかどうかも分からない状況で、神は生まれる男の子をイサクと名付けよ。とまだこの世に存在しない者をある者として名付け、呼び出されていました。

 

最後に、神には約束を必ず実行する力があって実際に実行するのだとアブラハムは信じました。

 

アブラハムの人生を振り返ってみますと、最初に神から直接語り掛けがありましたが、ヤーウェの神がいるなど誰からも伝えられていません。アブラハムの手元には私たちのように聖書はありませんでした。ただ、カナンの地へ行くように命じた神という方のことばの通りにすることで多くの祝福を受けた経験はありました。

 

この時代、自分の資産を増やし、その資産を受け継ぐべき子孫を得ることが生きる最大の目的でした。アブラハムは、いかに良く生きるか、自分の生きる最大の目的、サラの間の実の子を得るために、それを約束する神に絶大の信頼を置いて来ました。

 

アダムが神に背いて以来、神に従った子孫として名前が書かれているのはエノクとノアだけでした。ノア以降では、アブラハムが初めてです。彼は神との関係を回復するために選ばれて、従ったのでした。アブラハムは神を信仰する者にとって、最初の信仰者、信仰の父なのです。

それでは、アブラハムの信仰に倣う私達の信仰はどのように導かれたでしょうか。パウロの信仰の考え方が次へと展開していきます。

(小室 真)

 

23-25節

今日のみことばは、たった3節ですが侮れません。いよいよローマ書の本論にはいっていくために、挨拶から始まって序文にあたる1-4章をまとめています。

 

4千年前、今のイラクのペルシャ湾に近いウルにいたアブラハムに、神が語りかけられて、アブラハムはカナンを目指して旅しました。信じられないようなことも神を信頼して神に従ってアブラハムは最初の信仰者、多くの国の信仰の父とされました。

 

23節で「彼には、それが義と認められた」と書かれています。これは創世記15章5,6節のことです。『そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。』

 

アブラハムには律法が与えられていませんでしたから、義と認めた・・・律法を犯さなかった、罪を犯さなかったことを認められたということではなくて、信じられないようなことも神を信頼して神に従ったことによってアブラハムは義とされて、多くの子孫を得ることが約束されたのです。

 

義とする・・アブラハムを神の契約の家族の最初の人として置かれたという意味です。パウロはここで、主イエスを信じる者たちのためといいます。アブラハムの祝福を継承するものとしてアブラハム自身から生まれ出る者だけでなく、主イエスを信じる者が加えられることを創世記15章の約束の中に見出したのです。

 

25節で、主イエスは、私たちが義と認められるために、よみがえられたと言われています。主イエスが、私たちの罪を贖って十字架にかかられただけでは、私たちは義と認められない。アブラハムの祝福を継承する神の家族に加えて頂くには、イエス様のよみがえりがどうしても必要だったのです。

いよいよ本論が始まります。

(小室 真)