ローマ書1章で、パウロは本当の神様を認めることの大切さ、神様を知る者がしてはならない事を教えていました。続く2章では、裁くこと、律法に違反することについて教えています。
1-5節では、裁くことについて書かれています。これは、マタイの7章、ルカの6章でイエス様が教えられていたことです。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」皆さんも何回も口ずさんで、親しんできたみことばです。
パウロは、「他人をさばく者よ。」と呼びかけています。他人とは、1章25節から31節に書かれた行為をした者のこと、つまり、あらゆる不義、悪、貪欲、悪意に満ち、ねたみ、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれ、陰口を言い、人を中傷し、神を憎み、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい、浅はかで、不誠実で、情け知らずで、無慈悲なことをした人を指しています。
ここで言う、さばく者とは、悪しき行為によって傷つけられ、痛みを受けて訴える者のことではありません。
さばく者とは、勝手に裁判所を設け、みずから裁判席に座りこんで判決を下す者のことです。自分自身は正しい者として、悪しき行為をした者を批判する人です。私達は、悪しき行為を見た時に、批判するのではなく、我が身を振り返る必要があるのです。新型コロナが始まってから、世界中が他人をさばく者であふれているように感じます。自分も含めてそのような傾向が強くなっているように思います。
一方、さばいてはいけないから、または自分も悪いことをするからと言って、その悪いことを容認し、自分でも行い、または促すことは神様の御心ではありません。悪い行為は神様を悲しませ、ついには、神様はその人をさばかなければならないからです。
自分もその行為をしかねない人間として、相手を指摘し、押しとどめ、悔い改めに導くことを神様は私達に望まれています。神様は慈しみ深く、どんな悪しき行為でも悔い改める者を受け入れて下さるのです。私達には考えられない程の忍耐と寛容を神様は持っておられるのです。あなたは、今神様をどのようにイメージしていますか。怒りの神様でしょうか、それとも忍耐と寛容の神様でしょうか。怒りの神様をイメージしていると神様に対して頑なになり、悔い改めることが出来なくなってしまいます。豊かないつくしみと忍耐と寛容の神様をイメージすることはとても大切な事、軽んじてはいけないことなのです。
姦淫の女を連れて来てこの女をさばくようにイエス様に迫った律法学者とパリサイ人がいました。イエス様は「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい。」と言われたのです。そして、皆が去った後で、「わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません。」と言われたのです。
(小室 真)
ローマ書2章では、裁くこと、律法に違反することについて教えています。1-16節には、さばくことについて書かれています。「さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。」前半の5節までは、他人をさばく者、人を批判する第三者、人間のさばきについて書かれていましたが、6-16節は神のさばきについて書かれています。
神は、誰をさばくのか、さばく基準と受ける報いは何か、何時さばかれるのかがはっきり示されています。
まず、誰をさばくのか。6節に、「神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。」とあるように、全ての人、一人ひとりが裁きの場に立たされるのです。創世記三章でアダムとエバが神様のことばを破って知恵の実を食べた時、神様は、エバに聞き、アダムに聞き、蛇に聞きました。他の人がどうした、こうしたではありません。「あなたは何をしたのか。」と聞かれるのです。何一つ他人のせいには出来ません。
次にさばく基準と受ける報いです。9-10節にあります。「悪を行うすべての者の上には、苦難と苦悩が下り、善を行うすべての者には、栄光と誉れと平和が与えられます。」しかも、「神にはえこひいきはありません。」と言われています。つまりユダヤ人もギリシヤ人も日本人も一緒の基準です。国籍も年齢も性別も貧富も身体的状態も宗教も関係なく、キリスト者もそうでない人も同じ基準で全ての人を平等に扱われるのです。一人ひとりが良心に応じて行動したかどうか問われます。その良心が、利己的な思いになっていないか、真理に従っていないか、不義に従っていないかが問われます。
イエス様を神の子と信じれば救われるのではないのか。確かにそうです。イエス様を神の子と信じた時、それまでに犯した罪は赦され、既に赦したことを神様は持ち出すことはありません。赦されたから何をしても良いのかというと違います。イエス様を信じた者には、イエス様のことばに従おうとする行動が伴います。とはいえ、人間がイエス様の言われたことを完全に行う事が出来ないことも神様はご存じです。イエス様のことばに従おうと努力した心を問われると思うのです。人々の隠された事柄とは、その心と、心から出た行動ではないでしょうか。毎日の生活で自分の心を振り返って吟味することはとても大切です。沈黙して黙想する時間を持ちたいものです。
神のさばきは、イエス様がさばかれる最後の時に行われます。
(小室 真)
ローマ書2章17-29節は、律法に違反するユダヤ人の姿について話しています。
ユダヤ人、イスラエルの民は、神に選ばれて、祝福を受けると約束された民です。男性は割礼といって、その性器の包皮を切り落として、神の民とされたしるしとしていました。また、イスラエルの民には律法が与えられていました。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五書が律法の書で、その中に書かれた規定が律法です。律法は、モーセの十戒を中心とした道徳律法と、神殿の造りや祭司の役目を示した祭儀律法からなりますが、22節で姦淫や偶像や盗みを例として挙げていることから、パウロは道徳律法について言っていることが分かります。「律法を頼みとし、神を誇り、みこころを知り、律法から教えられて、大切なことをわきまえている」人々、この姿が神の民の恵まれた姿です。特に大切なことをわきまえることのできる人は、その行動にも言葉にも知恵が現れています。いろいろな問題を避けることが出来るだけでなく、周りの人にも信頼される人です。その人を導いておられる神の力を感じさせるかもしれません。
しかしパウロは律法を誇っているローマのユダヤ人たちを非難します。パウロの時代、エルサレムから遠く離れたローマでは、ユダヤ人は律法を学びながらも、周りの環境に染まって律法を守ろうとする気持ちは薄れていました。「郷に入っては郷に従え(If you are in Roma.)」だったのです。盗みや姦淫が当たり前の世界の中で、彼らも盗みや姦淫に対して心が鈍くなり、嫌悪していた異教の神殿への捧げ物で商売をしていた人もいたのでしょう。
彼らが、律法に示された神のみこころを知り、具体的な知恵と真理を持って、人々に教えながら、心にゆるみがあったローマのユダヤ人達は、パウロに「律法の中に光を見る者の行動ではない。律法を誇りとする人の態度ではない。」と言われ、光に照らされた思いだったのではないかと思います。律法の知識や体に受けた神の民のしるしに栄誉があるのではなく、心と行動を神が認めるのです。
今の私達は、このことばをどう受けとめたらいいのでしょう。盗みも姦淫も異教のささげものに関わっていないなら、ピンとこないのではないでしょうか。
実は、私達もローマのユダヤ人と同じように、社会や状況や雰囲気に流され易いのです。忙しい毎日が当然で、神様のことを思い、自分が何者か考える時間を持てずにいるのではないでしょうか。安息日のように体と心を休める切り分けた時間を持つ事、一日の中に神様に向き合って神様に自分の心を開いて祈ることはどうでしょう。他にやることがあるから、他の人がやっていないからと、やらないことの言い訳している自分がいます。神の民としての自分の生活を見つめ直してみたいと思わされます。
「御霊による心の割礼こそ割礼」だとパウロは主張します。御霊による心の割礼とはどういうことか、パウロはローマ書全体を通して話してくれます。
(小室 真)