13章まで、神に従うための愛の業についてパウロは語ってきました。
14章からは、ローマの教会の差し迫った問題について語り始めます。この問題は時代を超えて現代のキリスト教の世界が抱えている問題でもあります。ここに光を当てているのです。
当時のローマ教会には、ユダヤ人、異邦人、いろいろな文化や習慣を持った人がいました。ユダヤ教では食べられる肉が限定されていました。豚は聖くないとされ、聖いとされる牛や羊の肉でも、異教の寺院でいけにえにされたものや、ルールに従って精肉にされていないものは律法によって食べることが禁じられていました。保証のない肉を食べて、身を汚してはいけないと考えた人や、従来の慣習に従うユダヤ人の中には、野菜しか食べない人がいました。一方で多くの人は食べ物を制限していませんでした。互いに相手をさばき、見下し合っていました。同じローマの教会の中に、食習慣の違いで分裂が起きていたのです。
モーセは申命記で食べて良いものを細かく規定していました。それは、40年間の荒野の生活で民が健康を守るため、そして命についてイスラエルの民に深く理解させるためのものでした。マルコ7章19節でイエス様は、「外から入って、人を汚すことができるものは何もありません。」すべての食物はきよいとされたのです。パウロはそのことばを信じて、異邦人の教会でそう教えていました。
「信仰の弱い人」には、「何か決めた習慣を守ることで信仰を保てていると考える人」という意味合いと、全く逆の「信仰はあっても決められたことを守れない人」という意味合いがあります。互いに相手の信仰を非難することばです。「あなたは信仰が弱い」と批判する相手のことです。
パウロは、信仰者が決めた習慣や規定と信仰とは別のことだというのです。それぞれが神を大切に思って行っているのなら、食習慣や、大切にしている習慣は、それぞれの自由であって、その人が大切にすることを他人が妨げてはいけないというのです。神は、その人一人一人をしもべとして受け入れておられるからです。
キリスト教はカトリック、東方教会、英国国教、プロテスタント、更に教派、教団に分かれています。それぞれが大切にしている礼拝の形態、食事、信条を持っています。それぞれ確信を持って主のために守っているのです。互いに批判し合ってはいけないとパウロは2000年前に教えていたのです。
( 小室 真 )
国籍の違い、肌の色の違い、言葉の違い、生活習慣の違い。人は、違いを際立たせ壁を作ろうとします。似た者同士で仲間を作り結束を固め、違う人を見下そうとするのです。キリスト者の間でも同じです。
ローマの教会では、同じ神を信じる者たち同士であるのに、食習慣や、大切にする日の習慣の違いで、互いに相手をさばき、見下していました。14章1-6節でこの問題にパウロは切り込み、「信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。」と教えました。
7-12節で、キリスト者同士の兄弟姉妹で、相手をさばかないようにと更に勧めます。
その理由として、8節「私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死」ぬからだと言うのです。
突然、生きること、死ぬことという重い話になりました。ここで言う生死は霊的な状態のことではなく、肉体の生と死のことです。
キリスト者にとって、生きることも、死ぬことも、主のためです。
生きることについては、分かりやすいと思います。
神の子のイエス様が、人間の姿になってこの世に生き、私たちの罪を負って十字架にかかって死なれた。さらに死からよみがえられて、私たちを死の恐れから救ってくださった。イエス様が私たちのために苦しまれたのは、神が造られた私たちが豊かに生きるためでした。第一テサロニケ5章14-18節にその生き方が書かれています。「すべての人に寛容であること、善を行うこと、いつも喜んでいること、絶えず祈ること、全てのことにおいて感謝」して生きること。これは神が人に望まれることで、そう生きることは、主のために生きることです。
死ぬことについては、少し難しく感じます。
「イエス様のために自分のいのちをささげるのは、もう少し待ってもらいたい。」また、「イエス様のために・・・と思う間もなく、突然死んだらどうしよう。」などと私は考えてしまうのです。
キリストを信じる者が死ぬのは、よみがえりのいのちを受けるためです。イエス様の約束が成就して、私たちが霊のからだを受けるために死ぬのです。
いのちも死も、すべてのキリスト者に等しく与えられています。それぞれのやり方で、神から与えられたいのちを生きているのです。食物や習慣が違うからと言って、兄弟をさばいたり見下したりするのではなく、同じいのちに生き、よみがえりのいのちを受けることに目をむけるようにと促しています。人々が神のいのちを生きている素晴らしさと、死んでキリストのよみがえりのいのち受けて神の守りの中に置かれる安心が感じられます。
11節に神のさばきの座の様子を示すために、イザヤ書45章23-24節が引用されています。すべての舌が、神に告白するのは、「あなたこそ神です。」と神をたたえることばです。さばきの座と訳されていますが、キリストの御座という意味です。
すべての舌の一つである私たちも、自分自身が、寛容と喜びと感謝の生活が出来たことを証して、与えられたよみがえりのいのちを感謝し、神をたたえる機会が与えられるのです。それが、イエス様の御座の前なのです。
( 小室 真 )
当時、ローマの教会は、ユダヤ教のシナゴーグをベースに立てられていました。そこにはローマに住むユダヤ人だけでなく、ローマに住む異邦人のキリスト者も集っていました。ユダヤ教の影響が色濃くあったのは仕方のないことです。ユダヤ人以外の人もユダヤ教の倫理感や規律正しい生活にひかれる人もいて、一部の人々の間では食べものや飲み物の規定や特定の日の規定を信じて守ろうとしていたのです。
パウロの言うように、「それ自体で汚れているものは何一つありません」ということばを信じる人々は、規定を守る人々を見下し、一方で規定を守る人々は、守らない人々をさばいていました。
問題は、同じ教会の中で、汚れていると感じている人々の目の前でその行為をしたり、それは汚れていないと理屈で説いたり、または従わせようとする姿勢でした。それによって教会に来ることができなくなったり、キリストの救いを疑うようになったりする危険があったのです。
ローマの教会では、食べる物に汚れたものはないと信じる人が多数派でしたが、立場が逆だったとしても同じです。汚れていると感じている人々が汚れていないと考える人々を恥ずかしめ、日常の生活で無理強いして従わせようとする姿勢があれば同じように問題です。
現代でも、キリスト教では教会ごとに大切にしているものが異なる場合があります。聖餐式のパンをイエス様の本当のからだとして大切に取り扱うか、イエス様のからだの象徴として扱うか。献金を礼拝前にするか後にするか。いろいろあるのです。キリストの教会はいろいろあっても、一人のキリストを頭とした一つの教会です。他の教会それぞれの信仰を、批判し、さばいてはいけません。口で言うのは容易いですが、実際に違う習慣の中に置かれると違和感が強く、受け入れる難しさを感じます。人は習慣に支配されやすいのです。
17節で、「神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜び」だとパウロは教えています。「神の国」とは、地上にある教会のことです。
「食べたり飲んだり」というのは、教会内の食事会のことではありません。当時の教会で何を飲み食いして良いか、何がけがれているかという信仰上のルールのことです。
つまり、教会は、信仰上どのルールを守るかということに心を割くのではなく、相手を認めて、「聖霊による義と平和と喜び」という、お互いの心の喜びを求めることが大切だ、異なる習慣の違和感に打ち勝つには、聖霊による義と平和と喜びに目を向けることが大切だとパウロは教えているのです。
( 小室 真 )
改めてパウロは「すべての食べ物はきよい」と教えます。
しかし、汚れた食べ物があると信じている人がいて、その人の前で食べたり、その人に食べるように促したりすることは、その人が信仰につまずき、神の救いのみわざを台無しにしてしまう恐れがあります。
22節「あなたが持っている信仰は、神の御前で自分の信仰として持っていなさい。」
汚れた食べ物を意識している人に配慮し、教会内で対立が起きないようにと、その食べ物を飲み食いすることを自分で制限したとしても、「すべての食べ物はきよい」という自分の信仰をしっかり握っている必要があります。自分の信仰というものは、人に見せつける物でも、人に押し付ける物でもありません。自分の心の内に住まわれるイエス様の前に置かせていただくのです。
続けて23節「信仰から出ていないことは、みな罪です。」とありますが、この信仰とは、キリストを信じる人が食べたり飲んだりする時に、信仰に基づいているかどうかという、食べ物に関する非常に狭い信仰の問題です。とはいえこの問題は私たちの身の回りにもあるのです。
私が会社に勤めていた時、月初めに神社で祈願行事がありました。そこで祈願するために、一人一人御神酒の盃が配られます。私も参加していましたが、これを頂いて良いものかどうか、キリスト者であれば考えさせられます。
まず、異なった宗教の儀式に参加することの是非が問われます。
第二列王記5章で、アラムの王の軍の将軍ナアマンが皮膚病を癒してもらうためにイスラエルの預言者エリシャを訪れました。エリシャのことばに従ってヨルダン川に7回身を沈めると、幼子の肌のようにきよくなりました。ナアマンはエリシャに「私は今、イスラエルのほか、全世界のどこにも神はおられないことを知りました。」と告白しましたが、彼には心配事がありました。ナアマンの主君がリンモン神の神殿に入ってひれ伏す時、自分もひれ伏さなければならなかったのです。イスラエルの神を唯一の神としてあがめながら、赦してもらえるだろうかとエリシャに聞いたのです。するとエリシャは「安心して行きなさい。」と彼に言いました。ナアマンは安心して主人のもとに帰ったのです。
私もエリシャのことばに力を得て、会社の神社での祈願行事に参加しました。そこで、心の中でイエス様の御名によって会社への祝福を祈願していました。
儀式で飲み物食べ物が出されることがあります。全てはきよいのですが、そこで出される食べ物、飲み物に本人が不安を感じるようであれば、飲み食いすることは避けなければなりません。
仏教や神社の儀式には出席しない。出席したとしてもお神酒も、儀式上の食べ物も食べないというクリスチャンの方もおられます。その方々の信仰に対して、否定も批判もしてはならないのです。もし本人が不安を抱きながら飲み食いするなら罪になってしまいます。神のみわざを台無しにしてはいけないのです。
( 小室 真 )