ここでパウロは、信仰による義について説明をはじめます。「神を信じなさい。キリストを信じなさい。そうすれば救われる。」と聖書は色々なところで語っています。
聖書は、神について、キリストについて伝えている書です。神が創造主であることや、アブラハムやイサクやヤコブの神として祝福を与えられたこと、奴隷だったイスラエルの民をたくさんの奇跡を起こしてエジプトから救い出されたこと、イエス様が聖霊によってお生れになったこと、人々の病をいやされたこと、十字架にかかられて、死なれ三日後によみがえられたこと。
聖書に書かれたこと全部を知ってそれを信じるまで私たちは救われないのでしょうか。そして、信じるという目に見えない行為がどのように救いに結び付くのでしょうか。信じるということはどういうことなのでしょう。どうしたら救われたという確信を持つことが出来るのでしょう。つかみどころがなくて不安になります。
ところがローマ書10章9節から13節は、その疑問にはっきり答えてくれます。信じるべき要(かなめ)は、「イエス様が私たちの救って下さる主であること」、 「神はイエス様を死者の中からよみがえらせたこと」なのです。この二つのことは、神が創造主であることも、イエス様が十字架にかかられたことも、聖書のことば全てにつながる核なのです。
信じるとは、「心で信じ、口で告白すること」です。口で告白するといっても、口が利けない人もいます。どのような表現方法ででも自分がこの二つを信じていると、人の前で明らかにするということです。イエス様に心から助けを求めることです。人の前で自分の姿勢をはっきり示すことは、自分を変えていきます。イエス様を主と慕い愛する者に変えられるのです。
遥か遠くに救いを求めていましたが、こんなに身近に救いのことばがあったのです。
私たちを救うことばが身近にあることについて、申命記30章11節~14節示されています。
ローマ書6~9節では、この申命記のことばを生かしてパウロは語っています。
『だれが(私たちのために)天に上るのか』『だれが(私たちのために)深みに下るのか』と(私たちのために)と、ことばを補うと意味が分かり易くなります。イエス様は私たちのために、すでに地に下り、天に昇られたのです。これからもこの方以外には、私たちのためにいのちを捨て、よみがえらされる人はいないのです。ですから、このように問いかけることは、イエス様が既になさったことを否定する事になるのです。
「イエスが私の主である」「神はイエスを私のために死者の中からよみがえらせた」この信仰のことばを信じて告白することで、どのような人も救われ、その救いは確実に行われるのです。なんと恵み豊かなことでしょうか。主に感謝します。
( 小室 真 )
パウロは「聞くこと」の奥深さを教えます。
イエス様を主と信じるためには、イエス様について聞く必要がある。そのためには宣べ伝える人が必要だ。当たり前のことが書かれているように読めます。パウロは、何を語ろうとしているのでしょう。
宣べ伝えられることばには、相手を限定しないで、あったことを話していることばと、その人に伝えるようにと意図をもって話されている
教会に来た子供が、牧師の所に来て、「お父さんは熱があるみたいで教会には来ないんだ」とお話をするのが前者、「父から先生に伝えるように言われました。父は熱があって今日はお休みします。」と話すのが後者。後者では、話しを聞いている牧師は子供の後ろに父親の姿を見て聞いています。
パウロがいう「聞く」は、後者です。神の国のことばは、聞く人も語る人も、主イエスから授かったことばだという心構えをもって、受けることばなのです。人から聞いていますが、話す人の背後におられる神から聞くのです。そこに信仰が生まれます。
神から授かったことばを伝えるのは使者です。そのことばを心待ちにする者にとっては、長旅で傷み汚れた使者の足も、輝き、美しいと感じるでしょう。イザヤの時代もパウロの時代も神のことばをすべての人が心待ちにしていたのではありません。そうでない人たちもいました。
16節でパウロは、そのことを旧約聖書から引用しています。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか」イザヤ書53章1節のことばです。ユダヤ人であれば、イザヤ書53章だ! とすぐに分かります。「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」苦難にあう主のしもべ、メシヤの姿が預言されているところですが、当時のユダヤ人は、イエス様のことだとは理解出来ませんでした。
でもパウロはこの苦難のしもべが、メシヤであるイエス様だと理解できました。
イザヤ53章は、「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれたのだ。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、その打ち傷のゆえに、私たちは癒やされた。」と続いています。まさにイエス様の姿を示しています。
17節で、パウロは、「信仰は聞くことから始まります。聞くことは、キリストについてのことばを通して実現する」と教えます。
イザヤ書53章にあるしもべの姿が『キリスト・イエス、あなたの主』です。これは神があなたに意図をもって聖書を通して語っていることばです。このことばを「聞いて」受け入れる。信仰はそこから始まるのです。
( 小室 真 )
ここまで、パウロは、聞くことの大切さを話して来ました。愛する自分の民、イスラエルにはそのことばが届かなかったのか、届いたことばの意味を知らなかったのか、とパウロは問い直します。
「その響きは全地に、そのことばは、世界の果てまで届いた」これは、詩篇19篇4節のことばです。全ての人が神の恵みの中で生かされ、神の栄光は、全世界に知られている。そして、自らの傲慢さに支配されなければ、背きから解き放たれて神に贖われると詠われているのです。イスラエルの民にはその言葉はすでに届いているのです。
それでも耳をかたむけないイスラエルの民に対して神がどのように臨んでいるのか。パウロはモーセとイザヤのことばを引き出します。
19節は、申命記32章21節からの引用です。神に祝福される異邦人の姿をイスラエルの民が見たら、怒るほどねたむだろう、そうすれば彼らも自分の所に戻ってくるだろう。と待つ、神の姿が書かれています。
実は、申命記32章21節の前半には、こうあります。「彼らは、神でないものでわたしのねたみを引き起こし、彼らの空しいものでわたしの怒りを燃えさせた。」神は、エジプトの奴隷生活に苦しむイスラエルの民の叫びに応え、自分の民として契約を結び、救い出して、祝福したのに、彼らは何度も神から離れ、異教の神を自分の神としてきたのでした。その度に神はイスラエルの民をねたんだのです。イスラエルの民を愛するゆえに「ねたむ」という痛みを、はじめに神は味わってきているのです。
聖書の「ねたみ」は、現代の私たちが使う日本語の意味とは異なります。相手を激しく愛すること。しかも、相手を愛するゆえに、相手が自分以上にほかの者を愛することを、怒るほどに嫌う。その怒りは、ほかの者に向けられるのではなくて、直接相手に向けられる。そういう熱愛です。
異邦人が神に祝福されることで、イスラエルの民が神をねたむようになって、自分に帰ってくることを神は待っている。これは、やられたからやり返すというのではありません。民が自分の意志で、神を愛して戻って来ることを望んでおられるのです。その熱愛こそが、イスラエルの民を神にしっかり結びつけることを神は知っておられるからです。
神は、民がどのような状態にあっても、終日、手を差し伸べておられるます。イスラエルの民だけでなく、すべてのクリスチャンに対して、世界中のすべての人々に対して、神は手を差し伸べておられるのです。
( 小室 真 )