イザヤ書 53章


1-6節

52章で「良い知らせを伝える者のことば」が語られていました。そこには、そのしもべの姿を見た多くの者が驚き恐れると書かれていました。このしもべとはイエス・キリストのことです。

53章でその姿が語られます。イエス様が生まれる700年前の預言です。53章前半1-6節を見ていきます。

 

1-3節:< 約束のしもべ >

 

 

「主が救い主を送る」とイザヤはずっと語ってきました。イスラエルの民は聞いていましたが、信じていません。「主の前に、ひこばえのように生え出た。砂漠の地から出た根のように。」とあるように、枯れはてて命があるとは思えない切り株から出る若枝、水も栄養もない砂地に張る根。ダビデの家系といってもバビロンで奴隷となり、奴隷から解放されても、多くは貧しい一般人。その家系に、救い主が現れるのです。神の目にはご自分の御心を行うイエス様が見えていました。でも人の目にはただの人、貧しい大工の子、地位も権威もありません。力を誇示し偉ぶることもなく、悲しむ人や病の人と共にいる人でした。若枝にいのちがあふれるように、神のいのちのわざを行っても、人々は彼が神に遣わされたとは信じませんでした。

ヨハネ12章37-38節にこの様子が書かれています。

12:37 イエスがこれほど多くのしるしを彼らの目の前で行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

12:38 それは、預言者イザヤのことばが成就するためであった。彼はこう言っている。「主よ。私たちが聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕はだれに現れたか。」

主の御腕であるキリストは人々から隠されていました。

 

4-6節:< 僕の目的 >

 

 

5節には主のしもべの悲惨な姿が語られています。刺され、砕かれ、懲らしめられ、打たれるというのです。そのまま十字架につけられたイエス様の姿です。大切なのは、イエス様が御自分のせいで罰を与えられ、苦しめられたのではないということです。4節の「彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。」とあるように、イエス様がご自分から病を負い、痛みを担い、罰を受けたということです。ヨハネ10:18で、イエス様は弟子たちに語ります。

10:18「わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

イエス様は、自分から懲らしめを受け、いのちを捨てられたのです。

 

5節にその目的が書かれています。私たちに平安をもたらし、私たちが癒やされるためなのです。それはイエス様が勝手にやったのではなく、神の思いを実現するためでした。

 

神の思いとは何でしょうか。

ダビデ王には長男アムノン、母親が異なる弟のアブサロムとその妹タマル、その他20人を超える多くの子供がいました。美しい妹タマルに惹かれたアムノンは彼女を力ずくで辱めました。ダビデ王は激しく怒りましたが、動きません。そこでタマルの兄アブサロムはアムノンを殺害して他国に逃げました。3年後、ダビデ王はアブサロムを赦して国に帰らせましたが、王との面会は許しませんでした。イスラエルに帰国後アブサロムは人々の心をダビデから自分に向けさせ、ついにはダビデ王に反乱を起こしました。ダビデは家来を連れてエルサレムから逃げます。追いかけるアブサロムの軍と戦う家来たちにダビデは頼みます。「わたしに免じて若者アブサロムを緩やかに扱ってくれ。」ところがアブサロムは殺されてしまいます。それを知ったダビデは、身を震わせて、「わが子アブサロム。わが子、わが子アブサロムよ。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。」と嘆き悲しみました。(Ⅱサムエル18章)

 

アブサロムにとってダビデは愛する父でありながら、妹を見捨て、自分も見捨てた許しがたい父でした。一方ダビデにとって彼は愛する息子でしたが、第一王子を殺害し、それを赦されたのに王権を奪おうとした犯罪者でした。複雑な関係です。ダビデはそんな息子を「緩やかに扱ってくれ」と家来に頼み、亡くなった時には「わたしがおまえに代わって死ねばよかった」と嘆きました。これは、つらい状況にある子供に心を通わせよう、何があっても子供の側に立とうとする親の姿です。親の本音を子供が聞けたなら、子の不信と憎しみの心を溶かしたでしょう。神はダビデの心をじっと見ておられました。

 

ご自分が創造した人間が自分勝手な道に向かい、さまよい、死に向かっています。

人を自分の子供のように愛しておられる神は「おまえに代わって死んででも助けたい」と思っておられるのです。神は一人子イエス様を人としてこの世に送られました。そして、イエス様が人間に代わって咎をその身に負い、懲らしめを受け、死ぬように命じられたのです。

すさまじい神の愛です。あなたはそれほど愛されているのです。

キリストに神の愛は現れました。その愛を信じることで私たちの頑なな心は癒されて、平安が与えられるのです。

(小室 真)

 

7-9節

神は、自分の子供のように人を愛しています。それは「あなたに代わって死んででも助けたい」と思うほどです。そこでひとり子イエス様を人としてこの世界に送り、人に代わって懲らしめ、いのちを捧げるように命じられました。53章にその姿、苦しみに耐える僕(しもべ)について書かれています。イエス様が生まれる700年前の預言です。53章7-9節をお読みします。

 

 

7節「屠り場に引かれて行く羊のように・・彼は口を開かない」とあります。

屠り場は家畜を殺す場所ですが、人にとっては死刑に定める裁きの場です。「口を開かない」というのは、どんな不当な訴えにも一切抗議をしないということです。実際にイエス様を死刑にしようとする裁判で、祭司長たちは虚偽の訴えをしました。具体的にはこんな訴えです。

ルカ23章2節と14節です。祭司長たちはイエス様のことを「民を惑わし、カエサルに税金を納めることを禁じ、自分は王だと言っている。」というのです。

 

イエス様は一言も反論されませんでした。その姿がマタイ27章にあります。

総督ピラトはイエス様に尋ねます。「あなたはユダヤ人の王なのか。」イエス様は「あなたがそう言っています。」と答えます。ところが、祭司長たちや長老たちが訴えている間は、何も言いません。そこでピラトは不思議に思ってイエス様に聞きます。「あんなにも、あなたに不利な証言をしているのが聞こえないのか。」イエス様はどのような訴えにも一言も答えません。総督ピラトは非常に驚いたのです。

 

なぜ口を開かなかったのでしょうか。8節「彼が私の民の背きのゆえに打たれ」た。とあるように、イエス様を王とする民一人一人の全ての罪を負うためです。その裁判で裁かれていたのはイエス様ではなく全ての人の罪でした。イエス様はただ黙ってそれをご自分の身に受けられたのです。

 

9節「彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。」

これもマタイ28章にあります。イエス様を挟むように2人の強盗が一緒に十字架にかけられました。これはエルサレムを支配していたローマの都合でした。また、イエス様の亡骸を引き受けたのは弟子のひとりで金持ちのヨセフでした。彼は自分がはいる新しい墓を、ちょうど準備していたのです。弟子たちはイエス様のからだをここに納めました。振り返ってみると、イザヤの預言の通り「彼の墓は、悪者ども(複数)とともに、富む者(単数)とともに、その死の時に設けられた。」となっていたのです。繰り返される偶然の裏に、神の意志が働いていました。マタイも福音書を書きながらイザヤ書53章の預言がそのまま現実になっていたことに驚いていたのです。

 

イザヤ書53章を読む人の多くは、ここに書かれているのが誰のことか分かりませんでした。

イエス様が復活されて、聖霊が下った後、教会に集う人が増えると、食卓の役が七人選ばれました。その一人にピリポがいます。彼は、ガザに下る道に行くよう、主の使いに導かれます。更に、下っていく馬車と並んで走るように言われました。その馬車は、エチオピア人の女王カンダケの高官のものでした。高官はちょうどイザヤ書53章7、8節を音読していたのです。ピリポが「お読みになっていることがお分かりでしょうか」と声をかけると、高官はピリポに教えを乞うのです。「預言者はだれについてこう言っているのですか。」ピリポはこの聖書の箇所から始めて、イエスの福音を伝えたのです。ついに、高官はバプテスマを受けたいとピリポに望み、ちょうど現れた水場でバプテスマを受けました。

エチオピアの高官が読んでいたのはヘブル語の聖書だったでしょう。エルサレムの宮で礼拝に参加していたくらいですから、旧約聖書に通じていたと思われます。ですが、53章が示す人が誰かは分かりませんでした。イスラエルに滞在していましたからイエス様の噂だけは聞いていたでしょう。

まだ福音書もパウロの手紙も書かれていない時代です。旧約聖書の知識と弟子たちからの教えと聖霊の働きによって、ピリポは53章が示す人、苦難のしもべがイエス様であることを理解していました。そこで、福音を伝えたのです。この高官はイエス様が自分の罪のゆえに打たれて十字架にかかったことを受け入れたのです。この高官にとって大きな出来事でした。彼は喜びながら母国のエチオピアに帰って行きました。エチオピアはこの後、アフリカで最初のキリスト教国となるのです。

(小室 真)

 

10-12節

神は、自分の子供のように人を愛しています。それは「あなたに代わって死んででも助けたい」と思うほどです。そこでひとり子イエス様を人としてこの世界に送り、人に代わって懲らしめ、いのちを捧げるように命じられました。53章はその苦しみに耐える僕(しもべ)について書かれています。イザヤ書53章10-12節をお読みします。

 

 

この前の7-9節では、十字架刑にするための裁判でどんな虚偽の訴えを受けても、イエス様はただ黙って聞いておられました。それは、まだ訴えられていない全ての人の罪をも担うためでした。

 

10―12節には、苦難のしもべ、イエス様がその苦しみを通して何を受けるのかが語られます。得る物は2つです。10節。

1つ目.末長く子孫を見ることができること、

2つ目.主のみこころが成就することです。

最初の「末長く子孫を見る」は、次々と生まれる自分の民をいつまでも見るということです。イエス様がいのちをささげることで、いつまでも彼に従う民が生まれ続けるのです。しかも、それを見るためにイエス様は永遠に生き続けることが預言されているのです。

 

注目したいのは、「末長く子孫を見ること」が、「神のみこころを成就すること」よりも前に置かれていることです。前に置かれる程、重みがあるのです。いつまでも彼に従う民が生まれ続けることに、イエス様はより強い喜び、満足を持たれるということです。イエス様だけではありません。これは天の喜びでもあります。「一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです。」(ルカ 15:7)こうイエス様は言われました。

 

11節の「その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う」は、こう訳されます。

「自分の受けるべき罪の苦しみを、罪のないイエス様が代わって担われた。

イエス様が自分の罪を贖われたことを知った人の罪は赦される。そして、イエス様の十字架にその人の罪咎が加えられる。」

 

ここで気づかされたことがあります。

わたしの今までの認識はこうでした。十字架上で「完了した」とイエス様は言われて、霊をお渡しになった。全ての人の罪はその時点で、十字架にかけられて完了した。そのあとイエス様は特段に、贖いの働きはもう終わっていて、それ以上の事はなされない。罪の赦しを求める祈りを聞いて、イエス様は赦さるだけだと思っていたのです。

 

11節「わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。」です。

イエス様がよみがえられた後も、イエス様のあがないの働きは続いているのです。

イエス様は、私たちが告白した罪をご自分の十字架に張り付けて、私たちをその罪から完全に切り離して下さる。そこで、神によって私達はキリストの民に加えられる。

イエス様の十字架には私たちが赦された罪が増し加えられて、ずんずん重くなっていくのです。

イエス様は、私達の罪については一切、口にもされない、思い出しもされないのです。

 

「彼は強者たちを戦勝品として分かち取る。」とあります。・・自分の罪を認めイエス様の前に告白して赦しを乞うのは、本当に弱くならなければできません。でも、真の神によって罪を赦された人には弱みがなくなります。強い者です。

とりなしてくれたイエス様に心から感謝して従おうと思えるのがその証です。感謝します。

(小室 真)